ニートは死ぬべきか?【そもそも問いがおかしい】
どうも、ひまごです。
脱ニートして2年、大阪でサラリーマンをやっています。
今日は、ニートは死ぬべきかについて。
結論は「死ぬべきではない」です。当たり前ですね。
そもそもなぜこんな問いが生まれるのか?
それは、いまの日本では役に立たないことが悪だからです。
「コスパ」「生産性」という言葉をよく目にしますよね?
これこそが、いまの日本人の頭のなかです。
できるだけ安く、できるだけ早く、できるだけ良いものが欲しい。
いつもそういうことを考えています。
だから、すぐに商品を届けてくれるAmazonは人気です。
Amazonでは、中古品を安く買うこともできますよね。
また、いまの日本人にとっては「役に立つ」のが正義です。
だから、役に立たない自然は切り開いて、ショッピングモールを作ります。
ペットを飼うのも、可愛いから=自分を満足させるからです。
この国では、働かない=役に立たないニートは悪なのです。
悪だと思っているから、「死ぬべきか?」なんて問いが出るわけです。
ニート自身が「死ぬべきか?」を問う理由
ニート自身が「ニートは死ぬべきか?」と考える場合もあります。
その原因は、思い通りにならない自分への自己嫌悪です。
「自分はもっと優秀なはずなのに」
「挑戦してみたいのにできない」
「こんな自分は死んだほうがいい」
と、自分を責めるのです。
ぼくがニートだったときも同じでした
優秀でない自分に価値はない。
昔のぼくもそう思っていました。
優秀でない人生なんてつまらないだろうと。
けれど、いまは違います。
普通の人生は素晴らしいと心の底から思います。
そう思うようになった決定打はありません。
長い時間をかけて、少しずつ変わっていきました。
変わるために、いろいろなことをしました。
たとえば、こんな感じです。
- 得意でない科学の本を買って読んでみた
- あまり行く機会がなかった美術館に足を運んでみた
- 遠くの神社に行くのが良いと聞いて、日帰りで伊勢神宮に行ってみた
さすがにありがたい壺は買わなかったですけど(笑)。
ニートは役に立つ
いまの日本人は、短期的で直接的なメリットばかりを重視します。
そういう人たちにとっては、これからもニートは役に立たない存在でしょう。
けれども、長期的に考えれば、ニートの経験はかならず役に立ちます。
たとえば、人が変わるには時間がかかることを学びました。
言い換えれば、時間はかかるけれど、人は変わることも学んだわけです。
ニートのときに死ななくて良かったな。
いまではそう思っています。
それでは。
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